天明鋳物の魅力(栃木県)
歴史
佐野市は古く「天明」と呼ばれ、栃木県の南西部、群馬県との県境に位置します。天明鋳物は、約一千年の歴史があります。天慶3年(940年)に京都から、ここ下野の国に鎮守府将軍 として赴任したのが初代唐沢城主の藤原秀郷公。秀郷公は領国を統治するにあたり武具等を製作させるため、河内の国から5人の鋳物師を佐野の地に移り住まわせたことに始まります。
平安時代後期には湯釜が作られ始めました。安土桃山時代には茶道が隆盛を迎え、当時、西の芦屋、東の天明と並び称され、もてはやされたのが天明釜でした。芦屋とは九州・福岡県の芦屋町(佐野市と1998年に親善都市)。芦屋釜が地肌が滑らかで、地紋が鮮麗なのに対し、天明釜は侘びた肌合いに素朴で力強い造形に特徴があります。江戸時代の釜の鑑定控えには、「上作の天明釜は、大判金で五十枚程」と記されています。また、茶道の大成者で茶聖とあがめられる千利休が、天明釜で一会を催した旨の文献が残されています。
江戸時代には、京都の公家である真継家の配下の御用鋳物師として権威を誇り、領主からも保障を受け活躍しました。天明鋳物師たちは、鋳物師20人前後とその下で働く何十人かの鋳掛職とを合わせた数十人からなる組織を作り、閉鎖的で特権的な集団で社会生活を営んでいました。この組織のもとで、寺社の梵鐘、半鐘、鰐口や燈籠、擬宝珠、仏像、そして日常的な風呂釜、鍋、鍬や農具、茶の湯釜、花瓶など数多くの鋳物製品が作られ、越名・馬門河岸から船で江戸方面に出荷されました。幕末、真継家の衰退とともに、この組織も弱くなり、明治時代には組織が無くなっていきましたが、天明における鋳物生産は継続されていきました。以降は、他の鋳物産地の発展や、社会や需要の変化に伴い、佐野の鋳物業が衰えていきましたが、現在では数件の鋳物師が伝統的な技法を守り、工芸品や機械部品などを作り、天明鋳物の誇りと優れた技術が継承されています。
天明の名の下で鋳造された作品の種類は数多くありますが、圧巻は梵鐘です。現在、国の重要文化財指定の鐘は十数点にのぼります。その中の一つが京都・方広寺の鐘。この鐘の製作は慶長19年(1614年)に数千人ともいわれた全国の鋳物師とともに佐野から鋳物師39人が駈け参じ、脇棟梁を務める。この鐘は、口径2.8メートル、重さ56トンという巨鐘。
日光・東照宮の御宮奥院に祀られているのが家康公霊廟の青銅製宝塔。これも天明鋳物の一つですが、あまり知られていません。また、三代の家光から九代家重までの宝塔も製作しました。この事から、その時代の最も秀でた技術を持つ鋳物師に白羽の矢をあてたことは自明の理です。
特色・技法
全ての工程が天命鋳物師・若林秀真氏による熟練の手仕事によるもの。
天明鉄瓶は、全体の姿に簡素な趣があり、荒肌の侘びた風合で落ち着いた深みのある色、力強い造形で、注ぎ口は独特の鉄砲口。
伝統の手づくりの技法(惣型)にて製作。仕上げに、さびにくい鉄瓶にすべく、ヤキヌキという技法を用いています。約900℃で朝から夕まで焼き、これを3回・三日間繰り返し、酸化被膜を付けます。
鉄瓶で沸かしたお湯は「お湯がまろやかなになる」と言われ昔から茶人をはじめお茶愛好家にも大変好まれております。沸かしたお湯には身体に吸収されやすい二価鉄を含んだ鉄分が溶出し自然な形で摂取でき、又、水道水に含まれる塩素を除去する働きもあり、健康の面からも人気です。
略歴
- 天命鋳師 若林秀真
- 1953年、佐野市に生まれる。
21歳のときに鎌倉円覚寺居士林入門。
弘化3年(1846年)・江戸時代末期に創業の鋳物を作り続け160余年になる若林鋳造所の五代目として活躍。
作品は東大寺大仏釜をはじめ三千院の呼び鐘等があり、身近なところでは鶏足寺本堂の鰐口や唐澤山神社の拝殿神鈴等があり。 伝統を受け継ぐとともに〈温故知新〉の心掛け、〈自然体〉のものつくりに精進している。
平成23年(2011年)、若林鋳造所において収集保存 されてきた天明鋳物生産用具が、栃木県指定有形民俗文化財に指定されました。
付属資料と合わせ、その数 は1,400点を超えます。
数字は西暦年・( )年ごろ
鋳造品の銘や伝承に基づいて整理した 国際鋳物ショー 1968 京都より